劇団文芸座 代表 小泉 博

1.日本の現代演劇界がたどった足跡

(はじめに)
 日本における現代演劇の運動は、1909年、ヨーロッパの近代劇の移植によって始められたものでその歴史はまだ浅い。その上、第2次世界大戦の少し前から思想統制による検閲制度が設けられたために、戦争中は多くの有能な指導者が投獄されるという受難の歴史を持っている。

(戦後の混乱のなかで−アマチュア演劇の胎動−)
  第2次世界大戦の終結後、日本は敗戦による荒廃と社会的混乱を極めていた。生活は苦しく、人々は飢餓に苦しんだが、心は明るかった。人々は戦時中被った徹底的な言論の弾圧から開放され、表現の自由を得たからである。そこで、国民は芸術文化の創造に心を燃やし、あらゆる分野で活発な文化活動を始めた。そのひとつにアマチュア演劇がある。

  当時、上演する会場もままならぬ苦しい状況の下にありながら、自らの身体を使って人間と人間の在り方を問うという、この芸術形式は、人間性を回復し、人と人との連帯を強めるために最もふさわしい共同行為であったから、市民演劇、職場演劇、青年団演劇、学生演劇として燈原の火の如く全国各地に広がり、人々の心を豊かにした。

サントリー文化財団シンポジウム経団連会議場 ’84.5.10

  しかし、やがてその多くの団体は十年を待たずして政治的イデオロギーの対立、財政上の破綻、演劇創造上の力不足などによって、内部分裂したり、活動が停滞したりして、遂には解散するグループも相次いだ。もっとも、近年までプロの演劇人でさえ、自らの職業で生活ができる者は稀であったのだから、ましてや当時のアマチュア演劇に対する社会の評価は極めて低いものであった。当時は、アマチュア演劇が今世紀中に市民生活のなかに根付き、市民権を得ることが可能だなどと信ずる演劇人はほとんどいなかったのではなかろうか。

   1960年、日米安保条約締結反対の激しい政治闘争をきっかけに、演劇活動も二分されていった。さらには既成の演劇に対する反発が、新しい演劇活動として台頭し、60年代は小劇場運動がブームとなった。それらはアングラ演劇と呼ばれ、既成概念の演劇を覆す実験精神に満ちあふれていた。

 70年代に入ると笑いを主体とした演劇が展開され、ことにブラックユーモアが持て囃された。

 80年代になると軽い遊びの要素が舞台で多くみられ、若者たちの人気を集めた。これらは現代の多様化した状況に対応した一つの表現として理解できるものの、演劇の本質を無視した、単に奇抜さを求めたものであることが多かった。ところが、この日立ちたがりのパフォーマンスが、今日、日本の若者グループ全体に広まっていることは誠に遺憾である。 

第2回ハンガリー日本フェスティバル
シンポジウム基調講演ブダペスト ’90.3.27

  また、あらゆる芸術のジャンルで明確な線引きが困難になっているボーグレスという大きな波のうねりの中で、演劇界に於ても何がプロで何がアマチュアなのか、わかりづらい状況になっていることも確かである。プロデュース公演も目立っており、その時どきで寄せ集め公演をしては解散を繰り返している。

  もう一つの特徴として、シェイクスピアやチェーホフなどの古典や名作戯曲の上演、脚色上演、また歴史のある劇団では創立当初公演した代表作の上演も多い。これは、日本の創作戯曲に対する魅力の乏しさを裏返しているといえよう。

2.日本のアマチュア演劇組織

  日本のアマチュア演劇には二つの全国組織がある。一つは日本アマチュア演劇連盟(NADA 団体会員50、個人会員76、特別会員10)であり、もう一つは全日本リアリズム演劇会議(団体会員約80)である。

  日本には一千以上の演劇グループがあるが、前述の二つの全国組織には僅かしか加盟していない。誕生して何回かの公演で消滅を繰返す消長の激しさだけは、昔も今もあまり変らないようだ。

韓国春川市劇団混声20周年記念 ’92.3.7

  日本アマチュア演劇連盟は、1961年文部省芸術課(現文化庁の前身)の勧めによってつくられた。

 事業内容は、

 1.アマチュア演劇団体相互の情報交換及び連絡
 2.全国アマチュア演劇大会、地区演劇大会、演劇講習会の開催
 3.講師、審査員の派遣
 4.年鑑、脚本集の刊行
 5.アマチュア演劇に関する調査、研究、出版
 6.機関紙の刊行

などを行っている。

  1961年にプロの演劇人、評論家が全国の青年演劇、市民演劇、職場演劇の活動家たちに呼びかけて設立され、当初横浜に事務局を置いたが東京、富山に移り、今年三月富山から東京に再び移すことになった。但し、国際アマチュア演劇連盟(AITA/IATA)日本センターとAITA/IATAアジア地区センターは富山に置かれている。

  日本アマチュア演劇連盟と全日本リアリズム演劇会議とは、出発点で目指す方向が違っていたが、近年は活動内容が類似してきた。日本アマチュア演劇連盟と全日本リアリズム演劇会議の両方に加盟している劇団もあり、時折相互交流も行っている。

3.青年団演劇と高校演劇

  地域での大会を経て全国大会を行っている組織に、日本青年団協議会と全国高等学枚演劇協議会がある。地区大会、全国大会のいずれもコンクール形式をとっている。 

  日本青年団協議会は35歳までの社会人で構成されており、1952年から毎年、東京に於て全国青年演劇大会を開催している。

第1回ジャパンエキスポとやま富山の昭和史演劇編 ’92.8.24

  第2次大戦後の自由な開放感の中で、演劇運動を通して新しい意識に目覚めた地域の青年達が、地域社会での身近な問題をテーマとした創作劇の発表を中心にして活発な演劇活動を行った。しかし近年の活動は低調で、全国大会出場だけを目的としたグループが多く、舞台形象力の稚拙さが日立っている。リーダーの不足と日常の演劇活動の脆弱な基盤が問題である。

  その一方で、全国高等学校演劇協議会(1955〜)には、すぐれた舞台と教師と生徒が一体となったエネルギッシュで見事な活動がある。加盟校は2,500以上あり、1990年からは、全国優秀校5校が国立劇場の檜舞台で劇上演。更には「東京グロープ座高枚演劇フェスティバル」が行われるなど、その活動には日を見張るものがある。

4.“物から心へ”・“地域の時代到来”と民衆の意識変化

  1980年代から日本は急速に経済成長をとげ、国民は経済的な豊かさによつて、余暇時間が増加し、それにともない“物より心”へと民衆の価値観が大きく変った。

国際アマチュア演劇サミット日本会議 ’93.7.20 

  加えて、明治(1868年)以降の政治、経済、文化が東京に集中した中央集権の状況に対する是非が論議されるようになり、国民の意識に変化がみられるようになってきた。

  現在の日本では、東京一極集中から地域への多極分化、地方分権を求める声が地方から澎湃としてあがっている。

  高度成長を誇った日本経済も1990年に入ってから不況に見舞われ、このところ構造的不況のトンネルは殊のほか長く続いているものの、心の豊かさを求める国民のニーズは衰えることを知らない。日本の将来は、地方の活性化に活路があるといわれ、にわかに地域が脚光を浴びるようになってきた。

  これら国民の余暇の増大、価値観の変化、地域の時代の到来等による意識の変化は、地域を基盤に活動するアマチュア演劇や地域に根付いた文化活動にも大きな影響を与えた。

  とりわけアマチュア劇躇が地域文化の核として、活発な活動を展開する地域もあり、市民の精神生活に活気やうるおいを与えつつあるといって決して過言ではない。

5.富山国際アマチュア演劇祭

  私が生れ育った富山県は日本のほぼ中央にあって、日本海に面し、日本の47都道府県中人口は、38番目、112万人の小さな県だが、アメニティの全国調査では最近は常に1〜2位にランクされている。 

全日本ろう者全国大会演劇セミナー ’94.10.10

  富山は他県に比べ国際文化交流の活発な地域であり、とりわけ国際的な演劇活動が突出していることで内外から注目されている。

  プロ劇団では、辺境の地、利賀村に世界の演劇人が注目する「TOGAフェスティバル」を開催している鈴木忠志氏の率いる“SCOT”があり、アマチュア劇団では、県都富山市を本拠地にして50年近く活動する”文芸座”がある。

  富山県では、1983年に置県百年を記念して、アジアで初めて富山国際アマチュア演劇祭(TIATF’83)を、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなどから12ケ国15劇団を招いて開催。「富山が日本のアマチュア演劇の鎖国を解いた」と国際的に称賛を受けた。

  1985年、国際青年年に、アメリカ、ヨーロッパ、オセアニア、アジアから11ケ国14の高校生グループと18ケ国のアマチュア演劇の代表者を集めて、富山国際高校演劇祭(TIATF’85)を行った。

  1989年富山市と高岡市の市制百周年記念には、世界24ケ国27のグループと31ケ国の演劇代表が参加して富山国際青年演劇祭が開かれた。

東南アジアパフォーミングアーツ講演マレーシア・マラヤ大学
「世界の中の日本の演劇」 ’94.12.12

  1992年第1回ジャパンエキスポ富山’92の記念行事として富山国際アマチュア演劇祭(TIATF’92)が24ケ国25グループと34ケ国の演劇代表を集めて行われた。 

  1996年秋に国民文化祭とやま’96のメイン・イベントとして5回目の富山国際演劇祭が24ケ国から40グループが参加して開かれた。大型客船”新さくら丸”19,811tのオープンデッキをはじめ船内三大空間を使用したナイトクルージングによる演劇公演で幕開けした富山国際演劇祭は、富山の街に、海に山に、世界から集まったすぐれた才能によって素晴らしい舞台が上演された。

  出演者は6歳〜80数歳という幅広い年齢構成に加えて、国の内外から、聴覚障害者の人たちも参加して質の高い舞台がくり広げられた。

  皇太子殿下ご夫妻が観劇されたことや大型客船を使用した国際演劇祭について、いまだに国内外で話題となっている。

  日本の皇室がアマチュア演劇をご観賞になったことは、もちろん初めてのことであり、そのことはアマチュア演劇に多くの人びとの関心を集め注目させたことで大きな効果があった。

シンガポール演劇人集会
「世界の中の日本の演劇」潮州八巴会館 ’94.12.16 

  1985年、国際アマチュア演劇連盟(IATA)アジア地区センターが富山に設置され、1991年からTÅTA日本センターの事務局が東京から富山に移されたことにより、国際演劇祭はもとより、1993年国際アマチュア演劇サミット日本会議、1994年アジア・アマチュア演劇サミット日本会議やアジア演劇映像祭が富山で開催されるなど、今、日本では富山を中心とした国際アマチュア演劇の活動が活発に展開されている。 

  これらの国際演劇祭は、自治体、マスコミ、文化団体、一般市民から幅広く組織づくりが行われることで定評があり、アマチュア劇団では“文芸座”が、その組織を支えて、下働きをする。

6.劇団文芸座と富山県芸術文化協会について

  1948年に富山市で誕生した文芸座は国内で470公演、1977年から1995年まで世界15ケ国26都市で6作品を40公演行っている。

  文芸座が活発な演劇活動を展開するジャンプボードとなったのが、1972年秋に結成された富山県芸術文化協会の発足であり、この要因を抜きにして文芸座を語ることはできない。

「表現について」富山大学教育学部講座’95.9.6

  富山県芸術文化協会は、富山県内の全県レベルで構成された36の芸術文化団体で組織されている。県内の芸術家や文化人を軸に、行政(補助金)とマスコミ(広報)の三位一体で事業展開を行う国内でもユニークな芸術文化団体の連合体組織である。

  設立当初から、行政は「金を出しても口は出さない」ことに徹し、マスコミ各社との事業の連携は、事業主体となる芸術文化団体の自由な選択によって決められている。

  ことに、中沖豊富山県知事の理解と支援は絶大で、これは他県では見られぬ恵まれた状況と言わねばなるまい。更には“文芸座”の良き相談役として富山県のトップクラスの評論家や芸術家の積極的な協力が今日まで得られており、このことが富山県に於いて国際演劇祭をはじめ多くの国際交流事業の成功にどれ程大きく貢献しているか計り知れない。

 

全日本文化団体連合会宮崎大会シンポジウム県立芸術劇場
「地域文化と歴史風土〜時・風土・人を結ぶもの〜」 ’95.11.26

  富山県芸術文化協会加盟36団体の一つに8劇団で組織された富山県演劇団体連絡協議会があり、文芸座はその一メンバーである。1951年から1972年まで行政が受け持っていた富山県芸術祭実行委員会が解体され、新しい富山県芸術文化協会の結成に参画した私達は、協会の活動を軸に、いろんな分野で活躍する県内のトップレベルの芸術家や評論家達と活発な交流を行ったことで、文芸座の舞台形象カが飛躍的に向上する切っ掛けを掴んだ。つまり、富山県芸術文化協会に集まった優れた芸術家や知識人のエキスを吸収しながら、文芸座は育ったといえる。

  協会設立後の文芸座の突出した活動実績をみれば、それが十分証左できるといえよう。

  文芸座は、自らの演劇活動を地域に密着しながら推進する一方で、県内の高枚演劇やろう唖者の演劇活動にも協力の手を差しのべ、演劇を通した国際交流の橋渡しを積極的に行っている。 

  また、演劇のみに止まらず、富山県芸術文化協会と連携して舞踊、音楽、美術、華道などの分野にまで国際文化交流の輪を広げ、国際親善、国際理解の実をあげていることも特徴と言える。

7.私たちを取り巻く環境一文化施設の充実一

国際交流基金地域交流振興賞記念シンポジウム
「世界につながる地域文化」国際交流基金国際会議場’98.2.6

  私が演劇活動を行っている富山市(人口32万人)の文化状況は、このところ随分様変りした。

  1996年夏、富山駅北側に日本海側唯一の三面半舞台をもつ大規模ホール富山市芸術文化ホール(1,650〜2,200客席可変)が完成した。富山市内には現在、県民会館(1,200)県教育文化会館(700)能楽堂(400)市民プラザ(300)県民小劇場(120〜200)などの公立ホールがあり、近隣市町の各ホールとの連携と役割分担によって、富山市の舞台芸術、音楽の活性化が、更に期待できる状況となった。

  1996年春、富山市西部に整備中の舞台芸術パーク(110,000u)の敷地内の旧紡績工場跡(7,800u)に、演劇や音楽の練習専用施設が完成した。富山市が市民の舞台芸術活動の振興をめざし提供してくれた施設で、本番を想定して照明、音響も備えた舞台稽古場(555u)オーケストラ用リハーサル室(470u)の他、大中練習室5、小練習室32、舞台美術制作室、アトリエ、研修室3、会議室からなる。
 

サントリー第7回ハイパーフォーラム 文化は響き合う 富山と世界 ’98.9.27

  このような大規模で定期的及び長期使用が可能の練習専用施設は、日本で初めてであり、市民の舞台芸術、音楽の創造活動の陸路であった稽古場不足を解消してくれるもので舞台芸術や音楽に関わる市民への最高の贈物となった。舞台装置収納庫(1,600u)が近く着工されることも関係者を喜ばせている。

  かつて文化不毛、文化果つる地と誇りを受けた富山で第2次大戦後間もなく稽古場も公演もままならぬ苦しい状況下で演劇活動してきた私たちにしてみれば、ついこの間まで夢想だにしなかったことであった。

  文芸座公演で満席の観客席を眺めるだけでも、今昔の感に堪えない。アマチュア演劇が日本の一地方の富山でいち早く市民権を得、アマチュア演劇を媒とした多くの国際文化交流事業の実りをみるとき、私は例えようのない熟いものが胸にこみあげてくるのを抑えることができない。

  2000年8月には、第6回世界こども演劇祭が富山で開催されることが決まり、今後一層富山での国際演劇交流が活況を呈することが予想される。

                            劇団文芸座代表
                            国際アマチュア演劇連盟(AITA/IATA)アジア地区センター会長
                            国際アマチュア演劇連盟(AITA/IATA)日本センター代表
                            (社)富山県芸術文化協会副会長、専務理事

※ 平成9年度国際交流基金日本文化紹介派遣事業としてチェコ共和国第67回ジラーセク・ホロノフ演劇祭における講演の要旨で、日本語、英語、フランス語のほかにアラビア語、中国語、チェコ語、オランダ語、ドイツ語,八ンガリー語、イタリア語、韓国語、ロシア語、スペイン語の合計13ケ国語に翻訳・刊行された。