
芸術文化の国際交流 - その意義と成果 -
〜ハンガリー・デブレツェンと富山のケース〜
皆さん、私はハンガリーのチョコナイ劇場の演出家、ピンツェーシュ・イシュトヴァーンです。文化交流について皆さんに私の考えと経験をお話しするようお招きいただいて、嬉しく、また光栄と思っています。
「トヤマ・ジャパン」の中で、富山の国際交流の足跡を回顧した平田純(富山県芸術文化協会会長)さんは、ある警句家の「宗教と政治は、ともすれば人々を離反させるが、芸術は相互理解への道を開いて、友好を推し進めるための強い力となりうる」という言葉を引用しているが、その通りで、五大陸に別れて生きている地球の人々は、
・人類進化の最初から幾つのも民族に分けられてきているし、隣り合わせの種族でも生存を賭けて互いに戦ってきている、
・己の富のために、強大な種族が弱小民族を支配した古代以来、歴史的に政治によって幾つもの国に分割されてきている、
・地球の地面の移動で、アフリカ、アメリカ、アジア、オーストラリア、ヨーロッパが互いに数千マイル向こうに押しやられ、大陸が別々になって以来、地理的な距離によって隔てられてきている、
・それで、海洋によって孤絶させられ、自分の島に留められた各種族は、独自の生活を試みている、
・異なった言語(世界には公用語は三千以上もあり、非常に多くの方言が使われている!)を話す宿命のため、この「バベル的」宇宙では互いに伝達し合うことが出来ないでいる、
・自然の未知の力を恐れ、死を恐れる余り、独自の神を、独自の宗教を作り出すままに放置されている。
こういった歴史的状況の下で、それぞれの民族、それぞれの国、強大帝国のそれぞれの地域は、民謡、民族舞踊、民族衣装、誕生と死にかかわる民族・部族的儀式、また家の飾りなどに明かな、独自の文化を創り出してきた。民族芸術は現代芸術の濫觴であり、現代芸術も口頭伝承文化が記述文化から分離された後、一段と分化されてきている。
人類のごく短い歴史の中でも、常に、人々のグループ化の試みが見られている。政治、経済、又は宗教を土台にして、互いに結び合い、国や民族がより大きな単位を作ろうとする試みであるが、移民、世界戦争、社会的大変革が、昔も今も、そういった試みを壊している。
これらの事実から、二十世紀、二十一世紀という多言語、多文化社会にあって、人々の間の伝達のためには、芸術だけが唯一の共通言語だと、私は考える。それは芸術が普遍的だからである。
これはまた、異文化間の相互交流が極めて重要な理由でもある。それも、多くの面で重要である。優れた民族芸術や現代芸術作品を楽しむという複合した経験を通して、人々は、互いの国について、生き方、考え方など、より多くを知るようになる。そして、地理的隔たりにも拘わらず、二つの遠く離れた国の人たちが互いに親密になってくる。芸術こそが、歴史、政治、地理、経済、宗教、言語の違いによって引き起こされた、世界の伝達障害を切り開くために用いられる共通言語なのである。
この解決はごく簡単に見える。すなわち、民族、国、県、市が相互理解と友情と世界平和のために、相互的文化交流を造り上げてゆくのである。
しかし、この魅力的で期待のもてそうな理論も実践の段階に至ると、多くの困難に直面する。双方の側に強い意志と友情を持った熱心な少人数グループが居り、入念に練り上げた交流計画があってはじめて、類例のない効果的で、長期にわたる文化的結合が生まれ、それが多くの芸術的達成を招来し、より深い相互理解に貢献していくことになる。
二十年前、富山とデブレツェン、日本とハンガリーの間に文化的繋がりが打ち立てられたとき、多くの問題、それも一見、解決不可能と見える問題が立ちはだかっていた。
・日本とハンガリーは相隔たること一万二千キロメーターの、異なった大陸に位置している、
・当時既に日本は二十世紀の最も重要な経済的、政治的要員の一つと見られていたが、ハンガリーは政治的には「鉄のカーテン」の向こうの大ソビエト帝国の共産主義衛星国の一つと見られていた、
・日本は巨大な国であるのに、ハンガリーの全人口(一千万人)は東京一つの中に楽々とはまり込んでしまう位だった、
・実際的には敵同士であった、政治的には、私たちが日本に入るにはビザが必要だったし、私たちが日本に向けてハンガリーを出るには特別な許可が必要だった、
・私たちは二つの異なった政治・経済体制の中で暮らしていた。ハンガリーは日本に比べて貧しい国であった。ハンガリーの男性の月給、2,000フォリントは、当時日本の10,000円に相当した。ハンガリーの通貨フォリントは国際的には受け入れられなかったので、KLM、アリタリア、スイスエア、JALなどの西側の航空会社から外貨立てのチケットを買うことが出来ず、1983年、富山国際アマチュア演劇祭のため日本を初めて訪れたときには、ハンガリー航空でモスクワまで行き、そこからロシアの国内便ではハバロフスクへ、そこからシベリア横断鉄道でロシアの港ナホトカに行って、それからロシアの船で横浜まで行かねばならなかった。五日間旅をして、五日間「夢の国」富山に滞在し、また五日間の戻りの旅をした。芸術を通した文化交流を打ち立てるためには、決して理想的な状況ではなかった。おまけに、一人あたりの旅費は一年分の給与に等しかった。
・アジアの東にある島国の日本は、数千年の特異な歴史的伝統と文化遺産を持っているが、中央ヨーロッパに位置するハンガリーは、古くは中世に北方民族が南部部族と戦う格好の戦場となり、タタールとトルコの軍勢によって何度も滅ぼされ、近代になってはドイツの王と皇帝が仇敵スラブ族とこの地で戦った。二十世紀には二度の世界大戦で破壊された。
・ハンガリーはキリスト教国である。カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)が二大宗教であり、デブレツェンは新教の中心地である。だが、日本ではは仏教と神道が信仰されている。
・言語も違っている。日本の友人たちはハンガリーの語を理解しない、ハンガリー語がフィン・ウガル語族に起源を持っているというのに。
・ハンガリーではラテン文字を使い、ペンや鉛筆を使って左から右に横に書く。日本では漢字、平仮名、片仮名文字は筆で、上から下に縦に書かれる。富山の町で私たちは迷子になるが、家の上の広告や総曲輪通りの看板の漢字を読みとることが出来ないからだ。それに、「トート・ファミリー」の演出に当たったとき、文芸座のメンバーで経験したのだが、テキストを読むのに。本の終わりから始めて、ページを逆にめくっている。
・日本の日常生活も違っている。車はこちらでは右側にハンドルがある。(私が間違って運転席に座ろうとして、大笑いされたことがあった。)電気は110ボルトだし、ハンガリーのビデオ・システムPALも、日本のビデオ・システムNTSCとは違っている。
・小泉博さんがデブレツェンでハンガリーの俳優たちを使って「三年寝太郎」と「夕鶴」、「イワンの馬鹿」を演出したとき、挨拶するときには日本風に如何に頭を下げるか、畳の上でどのように座るかを、教えねばならなかった。私も「五月」と「グランド・ピアノ」を演出したとき、ハンガリー風に、どのように握手するか、ドアをノックするか、はたまた、舞台ではどのようにキスするかを、日本の出演者に教えねばならなかった。
というわけで、全ての状況から見て、日本とハンガリーの間に長期にわたる文化の繋がりを築き上げる強力な要因は皆無であった。しかし、文化的背景、歴史的・政治的特色、また言語の障壁といった相違点にもかかわらず、私たちハンガリー人は日本という国に常に特殊な共感を感じている。私たちは、昔、ハンガリー民族とフィン民族はアジアの何処かで日本民族の先祖と一緒に暮らしていた、そして、かなり後になって、私たちが西に移動し、彼らが東に行ったのだ、と想定している。
言語学者はハンガリー語と日本語はサンスクリット語と共通の特徴を持つと言う。日本語でもハンガリー語でも名前が先に来る。同じ様な意味で同じよう発音を持った語がある。例えばハンガリー語のsó[sho:]は「塩」であり、jó[jo:]は「上」(よい)である。
人間のDNA連鎖を調べている科学者によって最近探り出され特徴のあるものは、世界中で、ただ日本人とハンガリー人だけに見出されるものである。
しかし、あらゆる類似点と相違点を越えて、二十年前に私たちが初めて出会ったとき、互いに共感を感じ合い、言葉の壁にも拘わらず、心と心の伝達を交わし合った。最初から私たちは芸術というメタ言語で、互いに理解し合い、評価し合ったのだ。全ての障害が容易く克服できたのも、富山市の熱心な少人数グループが居たからであり、精力的で高度の教養と才腕を持った指導者が居たからである。
私が幸運にもニューヨークで劇団文芸座の代表にお目に掛かったのが、1981年のことであった。
全ては偶然であるが、私たちの出会いも幸運な偶然な出会いだった。ニューヨーク州バルハラの四月演劇祭にプレイヤーズ・スタジオ・デブレツェンと文芸座はチェホフの「結婚の申し込み」を演じた。面白いことに、それは国際的な特色を持った出会い、すなわち、三つの大陸と四つの文化の出会いであった:日本とハンガリーの俳優たちがアメリカ合衆国で、ロシアの喜劇を通して友達となった。これが富山とデブレツェンの間の日本・ハンガリー文化交流プログラムの第一歩であった。
ニューヨークで打ち立てられた友好文化関係を継続するものとして、1982年文芸座がハンガリーのカチンクバルチカで行われた第六回ホルバート・イシュトバーン国際アマチュア演劇祭に参加して大成功をおさめた。富山からの文化団体がハンガリーを訪れたのはこれが最初であり、デブレツェンでも公演した。お返しに、1983年、富山国際アマチュア演劇祭が初めて開催されたとき、プレイヤーズ・スタジオ・デブレツェンが富山県民会館で「エフェソスの未亡人」を演じた。
これが如何にして始まったかであるが、その後に続くものがもっと素晴らしかった。
ハンガリー文化・教育協会の資料に基づいて、ハンガリーの行っている相互的国際交流の歴史を調べてみると、連携の大部分が隣接国との間にある(地理的な距離が小さいし、隣接国では相互に行き来するのが易くて容易である)。
その他の連携は、政治的・経済的に国家の支援を受けた計画を基盤とする姉妹都市関係の枠の中にある。これは公的に作られた繋がりで、最近十年間ハンガリーに頻発した政治的変動、ないしは経済的理由から、交流の第一歩が終わると、それっきりで終わったり、形骸化して、内容も価値もないものになっている。
富山とデブレツェンの文化交流計画は当初から公的に打ち立てられた関係ではなかったし、それは今でも変わらない。友好的な繋がりとして出発し、広い範囲の文化交流に発展していったのは、最初の段階が終わって、他のジャンルの芸術も交流計画に巻き込むべきことが明らかになったからである。1984年、北日本新聞の創刊百周年に、文芸座とプレイヤーズ・スタジオ・デブレツェンが「結婚の申し込み」の合同競演を富山、黒部、高岡、砺波で行った。これは二つのアマチュア劇団の演劇交流を拡大充実させて広い範囲の文化提携に持っていこうとして、小泉博さんとデブレツェンのクルチェ文化センター所長ルコビッチ・アンドラーシュさんが交渉を始めたときでもあった。
1 連携を続けていくための基本的な考えの一つは、相互の既存の祭典、コンクール、芸術キャンプなどに参加すること、であった。
・こうして、日本の合唱団がベーラ・バルトーク国際合唱コンクールに参加するよう招待された(クール・クロワ、高岡女子高校合唱部)。
・毎年恒例のフラワー・カーニバルに芸術グループが招待された(可西舞踊研究所、和田朝子舞踊研究所等)
・ハンガリーの芸術家たちが富山国際アマチュア演劇祭に参加した(プレイヤーズ・スタジオ、フェレンツバーロシュ・フェニアル・カンパニィ)
・日本の芸術家たちがホルトバージ木彫刻キャンプに参加し、ハンガリーの芸術家たちが井波国際木彫刻キャンプに参加した。
2 次の基本的な考えは、日本とハンガリーの芸術グループが合同公演をすること、であった。(文芸座とプレイヤーズ・スタジオが「結婚の申し込み」を演じたし、富山青少年オーケストラがコダーイ合唱団とコンサートを持った)。
3 次に可能だったのは、例えば日本文化をハンガリーに紹介するという、複合的芸術プログラムを組むこと、であった。(すなわち、着物展示会、茶会、伝統的生け花展と現代生け花展、書道ワークショップに可西舞踊研究所の公演を合わせたもの)
4 更に両者が互いに相手の文化を研究する新しい方法として、優れた日本の学者又は芸術家を招いてハンガリーの芸術家と芸術制作に当たり、またその逆を行うこと、があった。(小泉博さんがデブレツェンでチョコナイ劇団のハンガリー人俳優を使って「三年寝太郎」、「夕鶴」、「イワンの馬鹿」を演出したとき、日本の衣装デザイナー、セット・デザイナー、技術指導者も招待した。私が文芸座の俳優たちの出演を得て、ハンガリーのドラマ「トート・ファミリー」、「五月」、「グランド・ピアノ」を演出したとき、重要な衣装と小道具を私はハンガリーから持ってきた。)
5 芸術交流でもう一つの可能な道は、特定の場合とか記念祭のためにイベントを企画すること、であった。(プレイヤーズ・スタジオ・デブレツェンは北日本新聞創刊百周年に富山に招待されたし、劇団文芸座は「トート・ファミリー」をブダペストのターリア劇場で公演した。1986年、日本に於けるハンガリー文化祭期間中に、この劇は東京の前進座で公演されている。)
6 展覧会、シンポジュウム、セミナーを開くことも重要だった。(小泉博さんはブダペストの第二回日本フェスティバルのシンポジュウムで基調講演を行った。)
7 発展の更なる段階は特別なイベントを企画すること、であった(例えば、中沖豊知事が同行された富山青年の翼など)。
8 ドラマが翻訳され、書物となって発行された(例えば、「トート・ファミリー」は平田純さんによって日本語に翻訳された)。
9 フェスティバルやコンクールに審査員として優れた人物と専門家が招待された。
これまで二十年にわたる私たちの文化の結びつき回顧してみると、それを要約することは容易である:私たちの計画にでは、殆どすべての種類の芸術が交流計画に取り入れられているということである。
視覚芸術
1 展覧会(絵画、彫刻、着物、生け花、書)
2 個々の芸術家が美術キャンプに参加
文学
3 ハンガリーのドラマが日本語に翻訳され本として発刊された
聴覚芸術
4 個々の音楽家、歌手がコンサートを開催した(ヴァイオリン・コンサート、トランペット・コンサート、ピアノ・コンサート、琴演奏会、オペラ・コンサート)。
5 個々の学者や芸術家が歌唱、舞踊、演技等のワークショップの指導を行った。
6 合唱団がコンサートを開いた(混声合唱、女声合唱、青少年合唱)。
7 オーケストラがコンサートを開いた(シンフォニック・オーケストラ、青少年ブラスバンド・オーケストラ、パーカッション・アンサンブル等)。
演劇
8 モダン・ダンス・カンパニィ、民舞グループ
9 演劇団の劇場公演とゲスト公演
ビデオとTV
10 富山に関するビデオがデブレツェンTVで放映され、デブレツェンのビデオが富山で放映された。
二十年の伝統を持つ富山ーハイドゥ・ビハールの関連は、ハンガリーだけでなく、全世界でも、公的に始められたのではない、相互的な国際文化交流の特異な手本である。
芸術家、文化団体、代表団が富山からデブレツェンへやって来た回数は50回に上り、日本人参加者は1,396名になる。
返礼として、過去二十年間に、45回にわたって、404名のハンガリー人の芸術家、文化グループのメンバー、代表団が、富山を訪れている。
総計95回、日本とハンガリーで文化交流計画に関わった参加者は1,800名である。
正確な数字はないが、日本とハンガリー両国で、日本・ハンガリー交流プログラムを観客として現場にあって楽しんだ人の数は、百万人を超えると見込まれているが、この数値は、富山TV、KNB、NHK、デブレツェンTV、ハンガリー国営放送の各チャンネルが、富山やデブレツェンでのイベントの詳細や全てを放送していることを考えれば、もっと大きくなるであろう。
富山・デブレツェン相互文化交流プログラムは公的にも認められている。ルコヴィッチ・アンドラーシュさんと私は富山県の「名誉大使」であり、小泉さんはデブレツェン市のチョコナイ賞を受賞しただけでなく、ハンガリー国からは「功労表彰と銀メダル」を、ハンガリー共和国前大統領アールパード・ゲンツさんから、受賞された。
更に「舞台は続けて行かねばならない!(穴を開けてはいけない)」
では将来は?
交流はもっと容易になると期待している。二十年前、日本とハンガリーは、政治的にも地理的にも、ソビエト連邦によって隔てられていた。
今では地理的にはもっと多くの国が間に介在しているが、我が国を支配する外国の政治的権力は存在しない。最近十年間にハンガリーは大きな政治的・経済的変化を遂げてきた。
私たちは自由な民主国であり、ヨーロッパ連合に入ることを待っている。私たちに問題はあるのだが、引き続きやって行かねばならない。
文化交流も引き続きやって行かねばならない。この八月にも、75名の富山県の芸術家たちが、ハンガリーの京都と言うべき、歴史的な町エステルゴムでの公演と展示を終えて、帰国したばかりである。
私たちは既に次の段階に注意を集中している:ここで私は誇りを以て公表するが、富山とデブレツェンの豊富で広い文化交流のお陰で、来月、デブレツェン・チョコナイ劇場は日本円で5,000万円相当のソニーのデジタル・ビデオ・スタジオ装置の贈呈を受ける。昨年日本文化援助基金に申し込んだものが、ODA計画の枠の中で認められたのである。
この装置を正しい目的のために活用することを私は約束する。富山とデブレツェンの間の文化交流プログラムは、小さな蕾として始まったのだが、今では大きな花束にまで成長してきた。その交流を豊かにし、深めるために活用することを、ここに約束する。
わたしのささやかな話の結びとして、この特異な、極めてまれな、国際的に認められた関係についての美しい歌:富山県芸術文化協会名誉会長深山栄さんの歌を引用したい:
「朝と夕、たがいちがいの国ありて
いかに咲かせむ 花のきずなを」
これを平田純さんは次のように解説してくれた:
デブレツエンの空に
デブレツエンの空に
朝が来るとき
富山の町では
黄昏が支配し始める
朝と黄昏は、いわば、
ハンガリーのデブレツエンと
日本の富山に
代わり合って訪れている
この二つの国は
友好と相互理解の蕾を
輝かしく花咲かせようと
努力している